Collaboration Model Dimensions とは、組織のコラボレーション特性を知るための 8 つの評価軸を指す。
各軸は「はい」または「いいえ」で答えられる判定項目を持ち、「はい」が多いほどコラボレーションがしやすい。具体的には「はい」は多いほど多様性と持続性を確保しやすく、それゆえ融通を利かせやすくなって、個々の深い集中(木)と全体の整合・連携(森)のバランスも取りやすくなる。
定例会議とは日次、週次、月次その他特定の頻度で行われる会議を指す。
これを非同期的に行う場合、会議は開催しないが、指定日時(開催日時に相当する)までに指定の情報を提出しておく必要がある。つまり会議の形で参加させることなく、各自が自律的に、指定日時までに提出を済ませることができる。これができるなら会議は不要だから、定例会議自体がなくなる。
この判定を行うために、まずは組織の標準勤務時間を特定せよ。会社が規定するものではなく、そのチームやプロジェクトなどで実際に運用されている時間を見るとよい。仮に 9:00-18:00 だとしよう。
非拘束性を判定するには、ここから 2 時間以上ズレた時間を考える。たとえば 7:00~16:00 や 11:00~20:00 などである。
さて、共存とは、このような者が定時間を主張し、それが受容されるかどうかを指す。7:00~16:00 の人が「16 時以降は定時過ぎてるので会議も返信もしません」と主張したり、11:00~20:00 の人が「会議が 10:00 に入ってますが、始業前なので開始時間を変えてください」と主張しても良い。また、実際に受け入れてもらえる。たとえば複数のチームで難なく受け入れてもらえたり、このような主張をする者が一度以上昇進していたりする。
逆に、許されてはいるが、黙認されているだけであって受容はされてない場合、共存とは言えない。共存かどうかの判断するには、実際の主張に対して肯定をもらったり、主張する人物が実際に評価されていたりといった「差別の無さ」で見る。
したがって、同じ組織やチームであっても、立場次第では非拘束性が代わりうる。たとえばメンバーレベルでは非拘束的だが、マネージャーレベルでは拘束的かもしれない。また経営層にもなると、非拘束的であるケースは皆無に等しいだろう。
長らく組織パラダイム=階層であったが、オープンソースを始めとしたボランティアやティール組織など新たなパラダイムが登場し、階層の限界を超えた組織のあり方も実現できるようになった。一方で、表面的には脱階層を謳っているのに実際はできていないというケースも目立つ。
これを判定するには脱階層性を見れば良く、同じ社員ではあるがチーム外かつ全く知らない者にメッセージを送ってみればよい。脱階層的であるならば、(よほど嫌われていない限りは)反応してもらえるはずである。逆に、反応してもらえない場合や、上司経由で怒られたりする場合は、まだまだ階層的である。
ここで「無関係な社員からのメッセージは無視するに決まっている」といった反論が出がちだが、その思考こそが階層的である。脱階層ができているということは、社員全員を等しく対等に扱っているということであり、社員全員からの接触を常に想定し、かつ接触があれば同じ人間、同じ社員として誠意を持って応えねばならない。無視するというのは、その原則を守れていない「論外な」行動であり、階層的である。もし本当に忙しくて接触者全員に返事できないのなら、それは別途仕組みで解決するべきであり、原則を踏まえれば仕組みを考えねばならない。
もっともわかりやすい例は、新人がいきなり社長にメッセージを送ることである。脱階層的であるならば、社長自ら返事をするはずだ。仮にそれができないほど多忙であるなら、何らかの仕組みを構築しているはずである。たとえば返事が遅れる旨を周知していたり、まずは秘書に目を通させて(社長に渡すまでもない内容なら)秘書から返事を出す運用にしていたり、などである。
理想を言えば、秘書でフィルタリングする運用は脱階層的ではない。脱階層とは組織全員からのアプローチを想定することと同義であり、社長含めアプローチされやすい者にはそれを処理する責任がある。もっと言えば、処理できない者はその器がないとさえ言える。
情報格差という言葉がある。情報のやりとりが行われる場――公式にせよ非公式にせよ、定例にせよ不定期にせよ、何らかの会議や会話に参加した者だけが情報を握っており、参加してない者には情報が行き渡らない現象を指す。リモートワークでも発生しがちであり、出社派や参加派が出社・参加していない者に情報を渡すことを渋ることはよく見られる光景である。
また、古典的にはオンボーディングは典型的な拘束イベントであり、普段リモートワークや非同期ワークを行う組織でもオンボーディングとなると出社とミーティングを増やす。これも情報格差のカテゴリーと言える。ただオンボーディングを新人に必ず課す運用のため、格差が表面化していないだけである。実際、メンバーが忙しくなったり、特殊な働き方が必要なメンバーが入ったりすると出社やミーティング参加がしづらくなり、オンボーディングの質も落ちて情報格差が生じたりする。
これらに共通するのは、情報の透明性がないということである。透明性とは情報がオープンに見えていることを指し、いつでも誰でもアクセスできる性質をいう。聞かれたから開示するのではない。元からすべて開示されているのだ。また、必要な情報が揃っていることも欠かせない。情報量や内容の難しさはさておき、揃っていなくてはならない。
そういうわけで、透明性を判断する目安が「戦力になれるほど」にキャッチアップできるかどうかなのである。ただし現実的には短時間でキャッチアップさせるために拘束を伴う事が多い。それでも、透明性があるのなら、最悪新人がひとりでキャッチアップするだけでも戦力になれるようになっている。
透明性を実現するには、基本的にすべての検討と議論と残す必要がある。録画などリアルタイムに残すか、議事録など後で残すかなど手段は問わないし、ハイブリッドになるだろうが、ともかく残すことになる。もっと言えば、残すための行動が恒常的に組み込まれていなければならない。たとえば1日1時間、業務時間中に情報の書き込みや整理が行えるようになっている必要がらう。そういう意味では、透明性の判断は、残し方とそのための活動の確保のされ方を見ることでも可能だ。
ここで「プライバシー、人事情報、経営の意思決定情報などは公開できない」といった反論が出るが、そういったセンシティブな情報は「権限を持つ者」の中で透明があれば良い。つまりデータとして残している必要はある。ただアクセス制限や暗号化などでプロテクトし、関係者だけがいつでも誰でも見れるようにしておけば良い。逆を言えば、情報が各自の頭の中にしかなく、既存の誰かと拘束的に会話しなければ手に入らないという場合は透明ではない。透明というからには、たとえば新しく役員になった者が、役員に必要な情報のすべてに自律的にアクセスできる必要がある。
アジャイル開発のスクラムがわかりやすいが、1週間や2週間などの単位で活動を回す考え方がある。従来は事前に全体計画を描き、ブレイクダウンをした上で、その通りに着手するウォーターフォールのモデルが根強かったが、アジャイルではまず動いてみて、その結果をもって直近何するかを考え、また動いて――のサイクルを繰り返す。VUCARD な現代では後者の方が優れている事が多い。なぜなら計画より行動の方が得られる量が多く、また計画と管理しかできない「コストのかかる足手まとい」も減らせるからだ。
この性質を反復性と呼ぶことにした。反復性を測るには、全体計画を描かずにスロット(週単位の活動)を繰り返せるかを見れば良い。
全体計画とはスケジュール、WBS、ロードマップ、進捗管理その他タスク管理といったものである。参考資料として提示することはあれど、少なくとも管理は不要である。必要なのはそのスロットで大体何をするかという合意と、それに向けた活動と、実際の活動結果、そして結果を踏まえて次のスロットで何するかを決めることだけである。決めたことを守る必要はなく、ベストエフォートで良い。
スロットについては、週単位である必要がある。1週間でも2週間でも、10週間でもよいが、少なくとも週の単位という「それなりに長い期間」でなくてはならない。よくあるアンチパターンが日次など日単位にすることだが、1日や2日ではまとまった活動は行えず、決めたことに従うかどうかの命令的・受動的な仕事になりやすい。反復とは試行錯誤の反復であり、試行錯誤するためにはそれなりのまとまった時間が必要で、それゆえスロットは週単位でなくてはならない。
そういうわけで、たとえば以下に当てはまる場合は反復的でない:
たとえば🐶と🐱の二者を想定し、🐶から書き込んだとすると、2回以上往復とは以下を指す:
つまり 4 ターン以上続くことと言ってもいい。あるいは返信側が2回以上返信すると言ってもいい。手段はチャットに限らない。QWINCS で言えばウィキやノートやチケットでもいい。ただし対面や口頭といった手段は想定しない。あくまで読み書きに限定する。
往復的なやりとりが日常的に見られるなら、その組織は往復的であると言える。しかし大半の組織では往復的ではないはずだ。つまり、オプションのやりとりが 4 ターン以上続かない。理由は複合的だが、たとえば以下がある:
やりとりを続けられないということは、議論や意思決定の量・質・スピードも落ちることを意味する。往復性がない組織は、従来どおり管理と会議に頼る羽目になる。コンセモニーが生じることも多い。
逆に往復的であるなら、4ターン以上続けることができる。リアルタイムである必要はなく、一ヶ月前に途絶えた話題を蒸し返すことも可能であり、したがって、あらゆるやりとりが開かれ、かつ進行するという安心感が生まれる。
チーム内の半数以上が余裕的であるならば、そのチームは余裕的である。あるいは半数以上でなくともよいが、少なくとも必要に応じて、あるいは役割として半ば恒常的に、余裕的なメンバーを設けられる必要がある。これができないチームは余裕的ではない。
余裕性の概念を見た現代人は「そんなことできるわけがない」との感想を抱きがちだが、それこそが余裕性のなさの表れである。現代は資本主義かつ情報化社会であり、現代人は余裕を殺される形で搾取されると言える。搾取されていることに気付いていない。1日3時間(スリースラック)は至極普通のことである、との理解にまずは至れねばなるまい。
とはいえスリースラックは常に必要というほど汎用的ではない。しかしコラボレーションにおいては必須である。なぜならコラボレーションとは生き物であり、きめ細やかなメンテナンスと大胆な発想による変化の両方が必要だからだ。そのためには時間的、精神的、認知的な余裕が必要である。余裕がなければ、目前の決められたタスクをこなすことしかできない機械に成り下がる。
職人性(Toolonomy) とは個人が道具にこだわれる度合いを指す。技術的に高度なパフォーマンスを出すには、職人のような働きが必要であるが、職人の本質は道具にあり、職人各々が自分に合った道具を自在に使えるかどうかが肝心である。
したがって、職人性を測るには、個人が道具を自由に使えているかどうかを見ればいい。しかし組織は、特に大きくなってくるとガバナンス上、自由な使用は禁止される。一方で、それでは現実的ではないため、現場では半ば黙認的に、自由な使用が許容されやすい。この許容が実際に起きているかどうかを見るのである。チームの中で複数人に見られる場合、職人性があると言っていいだろう。一人だけの場合は怪しい。
職人性のあるチームの場合、たとえば生成 AI で言えば、会社が許可していないツールや API を使っている個人が複数人いるはずである。無論、機密情報を AI に流すといったことはせず、各自で気をつけた上で使っている。権限委譲していると言ってもいい。判断を現場の各個人に委ねているのだ。逆に、職人性がないチームだと、このような個人は生じない。いたとしても退職するか、会社では職人技を使わず静かな退職をしているだろう。あるいは単に職人的な者が一人もいないかもしれない。無論、このようなチームでは、職人的に高いパフォーマンスは出せず、それを誤魔化すための管理と政治の比重が増える。
また、チーム内で職人的であることが(暗黙以上に)認められるケースがあり、これを 職人的なチーム という。たとえばチームのマネージャー自らが現場に任せると周知したり、形式的で負荷のない承認を用意していたりする。メンバーも堂々と自分の好きな道具を使うことができる。しかしチームの外は職人的ではないため、外では見せないよう注意しなくてはならず、その対処のノウハウや仕組みは整備しなければならない。ただし職人的なチームは瓦解もしやすい。チーム外での対処が漏れていて問題が表面化したり、職人的でない新人の加入によって問題を表面化されたりする。出島戦略など公式に認めさせることもできなくはないが、少なくとも 2026 年 2 月時点で、日本では実例はない。もちろん、初期の小さなベンチャー企業では自然と職人的になることが多いが、ステークホルダーが増えてくると容易に瓦解する。