エゴセントリック/アロセントリックの話題を踏まえると、造語とのかかわりも紐解けます。
ASD には造語する傾向があると思います。これもエゴセントリック的だからでしょう。
まずアロセントリック的に立ち回るなら、まず既存の言葉で表現できないかを考えますし、それができる回路もありますから比較的容易に見つけられるでしょう。調査や知識が足りない場合もありますが、身につければ済むことです。
一方、ASD はエゴセントリック的であり、そんな器用な真似はできません。私個人の経験で言えば、しっかり勉強・経験して身につけた場合であっても、生かせないことがあります。私がよく使うフレーズの一つに「その発想はなかった」があります。
また私は「理解」と「応用」は違うと考えており、「応用」とは「理解」したことを適切に想起して活用することだ、としています。よく「そんなこともわからないのか」「基礎が理解できていないんだよ」といわれますが、違います。理解はできているが、理解したことの応用ができないのです。
そんな私は造語も多いようです。仕事でも、プライベートでも、造語はよく登場します。「こういう感じの概念を説明したいが、既存の言葉がない」が非常によく起きるからです。それって~~のことだよね、ともよく指摘されますが、よく調べてみると細部が違っていたりしますので、私はその点を指摘し返します――が、いちいちそんなカロリーの高いやりとりなんてやってられないですよね。むしろ、そういった認知活動を節約するために、人の脳はアロセントリック的になっているのだと思います。
造語は通じないと言いますが、なぜでしょうか。これもアロセントリックから説明できます。
アロセントリックとは、いわば外界中心主義であり、「外界」を踏まえた上で立ち回りを考えると言えるでしょう。外界が絶対的な正義であり、外界にないものを持ち出すことは許されないのです。
「造語」は外界には存在しない異物である と言えます。造語の出来や良し悪しに関係なく、アロセントリックからすると造語自体が論外なのです。通じないというよりは、相手にしないのです。それも文化の問題ではなく、認知特性の問題です。(単語が長いので略しますが)エゴがアロになれないように、エロもまたエゴにはなれないのです。
ここで二つほど疑問があります。
一つずつ見ていきます。
Q1: 定型発達はアロとエゴと使い分けられるんだよね?どういうこと?
アロとエゴを使いこなせる人はおそらくアロであり、エゴを使うときもまずアロを(つまりは外界を)踏まえた上で使うのだと考えます。
先のダンスの例で言えば、今流行っているダンスミームのフォーマットに從った上で、少しだけ自分のやりたい動きを入れたりするでしょう。逆に、エゴ一筋ですと、そのフォーマットすら使わず完全オリジナルの誰得ダンスをやります。
Q2: 横文字など造語自体はしばしば登場するイメージだが、どういうこと?
一般に通用する造語は十中八九、外界にて定着した何かを指します。
元から存在していたが誰も名前をつけてなかった(既存の無名)のか、あるいは新しい概念だが十分普及が進んだことで「既存の無名」にまで昇格したのか、のいずれかです。他にも、強い影響力を持つ人達や組織によるジャーゴン(仲間うちなど限られた範囲内で使われる用語)が広まるケースもありますし、為政者が政治のために、あるいは大企業や広告代理店が政治やビジネスのために造語をつくって広めることもあります。つまり権力者が強引に定着させることがよくあります。
こういった形の造語はすでに身近ですし、今さら疑いもしないでしょう(毛嫌いする人は多いと思いますが……)。外界にあるものとして定着しているからです。すでに多くの利用者がいて、情報も整備されていますからキャッチアップも容易です。状況次第では「キャッチアップしなければならない」こともあり、プレッシャーにも後押しされます。
一方で、ASD 一個人がつくった造語は、外界にはないものです。アロ目線ではただの異物でしかなく、相手にしませんし、できません。
p.s. もし「そんなことはない」「私なら相手にできる」という酔狂な方がいらっしゃれば、筆者による造語の海がありますので、ぜひ遊びに来てください。