心理学や神経科学では、どこを基準として認知を行うかに関する研究が進んでいます *1。
かんたんに整理します。
エゴセントリックは自己中心的であり、自分を基準として外界を捉えます。一方、アロセントリックは環境中心的であり、周囲を見てその関係を捉えます。
Deep Research から引用します *1。
空間的には、
まとめると、空間認知におけるエゴセントリック vs アロセントリックとは、「自分自身を中心に空間を捉えるか」と「自分を離れて客観的に空間を捉えるか」の違いであり、それぞれ習熟する脳内メカニズムも異なることがわかっています。
認知的には、
健常者(定型発達者)は状況に応じて自己視点と他者視点を柔軟に切り替え、統合的な理解を得ることができます。しかし自閉スペクトラム症(ASD)などではこの切り替えが困難で、エゴセントリックな視点に留まりやすいと報告されています。FrithとDe Vignemontの議論によれば、社会的認知においてASD当事者は「自分が社会文脈に埋め込まれている」という感覚を持ちにくく、他者を独立した存在として捉えるアロセントリックな姿勢よりも、自分視点から見た他者像(エゴセントリックな姿勢)に偏りがちだと指摘
ASD の誰もが常にエゴセントリックである、と安直に断定することはできませんが、現在の研究や事例から見ても傾向は強いと言えそうです。
別のアプローチとして 文脈盲(Context Blindness)という概念があり *4 *5、ASD は認知処理の仕方の違いから文脈の理解が困難だとされています。他にもサリーとアン課題や実行機能(エグゼクティブ・ファンクション)の弱さなど、ASD 由来の困難は多数報告されています *6。これらを踏まえて、このドキュメントでは運動神経ならぬ認知神経が悪いとか、頭の性能がある種乏しいといった言い方をしています。
要は、ASD には文脈を理解できるだけの回路や器官といったものがないか、壊れていると言えるのではないでしょうか。処理のしようがないので、アロセントリック的に立ち回れません。
もちろん IQ が高ければ知能でゴリ押ししてカバーできるでしょうし、そうでなくとも文脈を言語化してもらえれば理解は可能です。そもそも社会人くらいに経験を積んでいるなら、まがいなりにもアロセントリック的な立ち回りはできるでしょう。私もできます。ただ、それでも回路や器官をゴリゴリ活用している健常者の水準には至れないか、至れても疲弊します(燃費が悪い)。
というわけで、アロセントリックの発揮に関しては、少なくともハンデはあると言っていいでしょう。
わかりやすい例を一つ挙げます。
あるダンサーが YouTuber として活動を始めるとします。ショート動画による売名を目指したいとします。これをエゴセントリック的、アロセントリック的にとらえてみましょう。
まずはアロセントリックから考えます。
次にエゴセントリック的にとらえてみます。
アロセントリックは外界を踏まえて立ち回ろうとしていますが、エゴセントリックは自己中心的に立ち回ってしまっています。健常者であれば、おそらくアロセントリック的に立ち回れるでしょう。何の疑いもなくそうすると思います。一方、ASD はおそらくエゴセントリック的に立ち回ると思います。
実際、私もまさにそのように立ち回っていました。何年もの間、エゴな活動で見い出されることにフォーカスし続けていました。当然ながら人など集まりませんし、偶然バズったことはありましたが、(あるアニメの醜悪なキャラに似ているという意味での)気持ち悪さでネタになったものでした。
ここまで理解してもなお、私は自分独自の路線で続けたいと考えていますし、趣味と割り切ってそうしています。これは研究で示されているか不明ですが、アロセントリックに対する報酬も弱いと感じます。外界に興味がないのです。
だからなのか、私はミニマリズムを始めとするシャープな取捨選択も得意で、「髪の毛を気にするだるいし、すでに円形脱毛であちこちハゲてるし、もう坊主でいいか」と坊主にシフトする(つまり髪の毛をミニマイズする)くらいはかんたんにできてしまいます。最近では恋愛や結婚やパートナーといった営みも捨て、何なら概念化しました――と、アロセントリックな目線では信じられない所業に見えるでしょう。