原則:天然の原則
サマリー
- どこかズレている・抜けている人を天然というが、ASD は常時重度の天然が入っているようなものである
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背景とアプローチ
- 普通なら当たり前に即座に思いつくことが思いつかないさまに対し、「天然だね」ということがある
- 👉️「天然」という言葉は、ASD を端的に表現するのにわかりやすいたとえとして使える
アプローチ詳細
- ASD は主に認知処理的な不具合を抱えているようなものであり、それゆえ三困難が表れる
- 数字でたとえるなら、定型発達はある種の処理性能が 1000 あるが、ASD はこれが 100 や 10 しかないようなもの
- 定型発達は 1000 のスペックを日頃から発揮しており、社会生活におけるコミュニケーションも「スペック 1000 による処理」が前提となっている
- 一方、ASD はもっと低いので、その水準についていけない
- 結果として、
- 当たり前にすぐにわかるようなことがわからない
- 足りないスペックで自分なりに結論を出すが、スペック1000から見ると稚拙や滑稽に見える → 天然に見える
- 🐰私がよく使うのは「理解と応用の違い」です
- 私は基礎知識をちゃんと理解しても、思い出せないことがあります。答えを聞くと、「ああ、それね。知ってる勉強してる」「ただ そのときは思いつかなかった」のような感想を抱きます。別の例では、一度怒られたことをまた繰り返してしまいます。これも「怒られたことはちゃんと理解しました」「ノートもとってます」「暗唱もできます」「ただ、そのときは思いつきませんでした」です
- しかし、仕事などで接する人達からは「いやそれは理解できてないんだよ」と言われます
- 私に言わせれば、理解したことを適切に活用できることは「応用」の範疇だと考えます。定型発達ならこなせるのでしょうが、ASD には難しいことです
- IQが高い場合はまた違うかもしれませんし、見聞きした限りでは人並以上にカバーできてそうに見えます
- このような 性能の違い は様々存在する
- 🐰筆者目線で性能が関係する例(つまり「持っている側」の筆者から見た疑問):
- エスカレーターの列待ちをしている人達の意味がわかりません。階段を使えばいいと思います。通勤通学しているくらいですから、階段を登る体力くらいあるはずです。何がしたいのでしょうか。並ぶのが好きなのでしょうか?
- 部屋や机が汚い人の意味がわかりません。整理整頓をしたり、要らないものを捨てればいいだけです。面倒な仕事や嫌な人付き合いなど、もっと難しいことはガンガンやれているのに、なぜこんなかんたんなこともできないのでしょうか?
- 締切が近づいてから張り切りだす意味がわかりません。学生症候群と名付けられているように、学生なら百歩譲ってまだいいにしても、社会人でそれはみっともないと思います。ましてそんな人がマネジメントをしていることに虫唾さえ走ります。その程度もできない、だらしない人間に一体何のマネジメントができるのでしょうか?
- ASD もその一つであり、かつ(複合的ではありますが主には)先天的であるとされている
- 対処としては受容と合理的配慮と継続的対話
- まずはそういうものと受け入れる。現時点で完璧に研究され尽くしているわけではないし、個人差も大きいことなので証明は難しいが、それでも受け入れる。信じられないなら、ASD について勉強して概要を理解したり、事例を集めてイメージを深めたりする
- そしてその人に合った、個別の対応をする(合理的配慮)。スペックが根本から違うようなものなので、応用が瞬発的に求められる場面(まして既存の規範に從わせる形で手段も制限されるという二重苦)は不可能に近い
- 最適な対応は人次第なので、(まさに合理的配慮の中枢とされているが)継続的に対話していくこと自体が重要。最適な落とし所を探り続ける